問119では、「まことの礼拝はどこにありますか」と問います。答えは、「み言(ことば)が正しく語られ、正しく聞かれ、聖礼典が、み言に従って正しく行われ、正しく受けいれられているところです」です。
「正しく」とは、公同教会の信仰に則って、と言うことです。説教が、イデオロギーを語ることでも、個人の信条を語ることでもなく教会の信仰に基づいて語られると言うことです。それゆえ「正しく語られ」は、自ずと教理説教となるのです。教理の学びは、「正しくみ言葉に聴くため」の学びです。
問119では、「まことの礼拝はどこにありますか」と問います。答えは、「み言(ことば)が正しく語られ、正しく聞かれ、聖礼典が、み言に従って正しく行われ、正しく受けいれられているところです」です。
「正しく」とは、公同教会の信仰に則って、と言うことです。説教が、イデオロギーを語ることでも、個人の信条を語ることでもなく教会の信仰に基づいて語られると言うことです。それゆえ「正しく語られ」は、自ずと教理説教となるのです。教理の学びは、「正しくみ言葉に聴くため」の学びです。